量子革命

いやはや、この数日間私は狂ったように或る本に魅了され、狂ったように読んだ。

院試勉強をしていた8月中旬、息抜きに街の本屋に出掛け、この本を目にした。
それまでも大学の生協などで目にしていたが、その厚みとタイトルから、いかにも読むには労力がいるような類の本だと思い、避けていた。
しかし、このときは自然とその本に引かれ、手にとった。
プロローグを読んだ瞬間、「しまった」と思った。
とても魅力的な内容で、プロローグを読んだだけでも興奮して胸が高鳴ったのだ。
今すぐにでも読みたかったが、院試が先に控えていたので、院試が終わったら読もうと決めた。
院試も終え、目当てのその本を大学図書館で借りてからは、貪るように読んだ。

マンジット・クマール著『量子革命―アインシュタインとボーア、偉大なる頭脳の激突』

これは壮大なる量子力学形成史である。
事の始まりは19世紀末、当時 物理学者の多くは、大きな発見はすべて、既に成し遂げられたと信じていた。
黒体放射の分布式を見出したプランクは、その物理的意味を説明するために「量子」という大きな代償を払うことになってしまう。
プランクは「量子」という概念は一時的なものであり、後で訂正するつもりでいたのだ。
しかし、その後アインシュタインやボーアらにより、「量子」という概念を用いれば多くの物理問題を解決できるとわかり、プランクは図らずも「量子革命」の火付け役となってしまったのである。

本の前半では、プランク、アインシュタイン、ゾンマーフェルト、ボルン、ボーア、ド・ブロイ、パウリ、ハイゼンベルク、シュレディンガーなど、数々の(物理の教科書に必ずと言っていいほど名前が載る)偉大なる物理学者たちのエピソードが綴られる。
とても生き生きとした描写で、それぞれの個性が溢れ出んばかりである。

ボーアはコペンハーゲンにある自分の名を冠した研究所を、量子力学の一大中心地にし、優れた物理学者を生むことに成功した。
(意外にも!)そんなボーアに、物理学者としても教育者としても多大なる影響を与えていたのは、ラザフォードだった。
私の中では、ラザフォードというのは、原子模型を提案したくらいの(失礼!)影の薄い(失礼!!)物理学者だったので、とても驚きだった。

不確定性原理に関するハイゼンベルクとボーアの論争についてのエピソードも面白い。
自分のボス、ボーアのあまりに厳しい論駁に、つい泣いてしまうのだ(可愛いやつだ...)。
流石にハイゼンベルクには同情してしまう。

波と粒子の二重性についての論争や、ハイゼンベルクの行列力学とシュレディンガーの波動力学の優位性に関する論争など、緊迫して目が離せない場面が多い。
20世紀前半の激動する国際情勢のなかでの物理学者と物理をとりまく重たい空気など、とてもリアルで、読んでいるこちらまで胸が苦しくなる。
しかし何と言っても、この本のいちばんの山場はやはり、量子力学の解釈をめぐるアインシュタインとボーアの論争である。

量子力学を用いれば、不確定性原理の範囲内で、個々の現象を可能な限り説明できる、というのがボーアの説明であるが、アインシュタインはその量子力学の正しさを認めつつも「不完全な理論」と考える。
「量子力学の不完全性」を証明しようと、アインシュタインは度重なる思考実験によってボーアを攻撃するが、その度にボーアはアインシュタインを論破し、その絶大な影響力でコペンハーゲン解釈を「正しいもの」として世界中に布教するのである。
アインシュタインは次第に、「保守的な過去の遺物」として孤立してしまう。
相対性理論によって物理学の世界に革命をもたらした男は、量子革命の反動家となったのだ。

「神はサイコロを振らない」というのは、アインシュタインが残した有名な言葉であるが、これは量子力学の確率的な側面について語ったのではなく、もっと深いところ、実在論について語った言葉である。
量子力学では、波動関数が収束する(観測や測定が行われて可能性が現実になった瞬間、量子系の状態が突如として変化する)前では、波動関数は多くの状態の重ね合わせとなっている。
シュレディンガーの猫」を例に出すならば、蓋を開ける前では、「猫が死んでいる状態」と「生きている状態」の重ね合わせとして存在するのだ。
観測や測定の有無に依らず、量子の世界が存在していなければならないというのがアインシュタインの考えであった。

このアインシュタイン=ボーア論争は、アインシュタインとボーアとでその哲学に大きな違いがあったことも原因のひとつだ。
ボーアは理論の上に、哲学的立場(それは、理論が実在について何を語っているかを理解するための解釈)を作った。
アインシュタインは科学理論を基礎として哲学的世界観を作ることの危険性を承知していた。
アインシュタインは哲学的には実在論者であり、その上に理論を作ったのだ。

量子力学では完全には現象を描写できないと考えたアインシュタインは、より過激で物理の根本を揺るがすような理論が潜んでいるはずだと踏んだ。
一般相対性理論と電磁気学を併せた統一場理論を見つければ、それは量子力学を含むような完全な理論になるだろうとアインシュタインは考えたが、とうとうその夢も叶わなかった。


アインシュタイン=ボーア論争は、はっきりとした決着のつかぬまま、二人の死を以て終る。
ボーアの死の直前のエピソードはなかなか涙を誘う。
2人は殊、量子力学の解釈を巡って対立したが、お互いを認め合い、アインシュタインの心の中には常にボーアがいたし、ボーアの心の中には常にアインシュタインがいたんだなぁ、と思うとほっこりした。

この本は、量子力学をこれから学ぶ人、学んでいる最中の人、一通り学んだ人、すべてにお薦めしたい。
私は大学の統計力学の講義でプランクの黒体放射の分布式について学んだ。
教授は黒板に何やら炉の絵を描き熱心に説明していたが、当時の私には面白さが分からなかった。
そもそも「黒体」ってなんだよ...と。
それから一通り量子力学を学び、少しは使えるようになった。
今、この本を読み、プランクの黒体放射と、今まで習った量子力学の誕生までには、こんなストーリーがあったのか!と興奮している。
量子力学の難しい教科書には、いかにも崇高そうに式が並んでいる。
私は今までその式は「天からの授かりもの」の如く見ていたのだが、この本を読んでからは、ボーア、アインシュタイン、シュレディンガー、ハイゼンベルク、ディラックなどの偉大で個性的な面々が苦労に苦労を重ねて作った理論なのだという思いが強くなり、敬意を表せずにはいられない。
そして、この先、すべてを上手く説明できる完全な理論が出てくるのか楽しみである。

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