約十年ぶりに『もののけ姫』を観て感じたこと

先週末,友達とレンタカーを借り,北東北の名所を見て周った.
岩手の龍泉洞,十和田湖,奥入瀬渓流,白神山地,鵜ノ崎海岸などを訪れた.
この中で特に印象に残っているのが白神山地である.
言わずと知れた,豊かなブナの原生林の世界遺産である.
この時はトレッキング道具を持ってきていなかったので(驚くことなかれ,足元はクロックスのサンダルだったのだ...),軽い散歩をするにとどめたが,それでも十分にブナ林を楽しむことが出来た.
また,白神山地の太平洋側に存在する十二湖の一つ,青池も観光した.
日没時に行ったため,やや色が分かりにくいが,名前通りの青色であることが窺えた.
水は透き通っており,日が差せばさぞ美しく見えるのだろう.
なぜこのような色に見えるのか,その理由は未だにわからないという.
さて,白神山地といえば,ジブリ映画『もののけ姫』の舞台の一つであることで有名である.
作画担当者がアシタカの故郷であるエゾ(蝦夷)を描く際にこの地に足を運んだという.
なるほど言われてみれば今にもヤックルに乗ったアシタカが出てきそうである.
友達も青池を見て「シシ神様が出てきそう」「いや,もう日没時だからデイダラボッチになってるよ」など話していた.
私も小学生の頃だか中学生の頃だか忘れたが,『もののけ姫』を観たことがあった.
しかし,約十年だった今では,その内容は殆ど覚えていない.
そこで,旅行から帰ってきた私は,白神山地も訪れたことだし,『もののけ姫』をもう一度観返してみようと思ったわけである.
以下,約十年ぶりに作品を観て感じたことを徒然なるままに書いてゆこうと思う.


先ず,観た直後の私の感想は「サンかわいい」「なんて深遠なるストーリーなんだ!」というものだった.
調べれば調べるほど,宮崎駿がこの作品を構想・製作するに当たりどれほどの情熱と時間と労力をつぎこんできたかがわかる.
おそらく,宮崎駿は当時の日本の民俗学や歴史,文化をかなり詳細に調べたに違いない.
私は或る日,東北の鬼(大竹丸)についてまとめられたサイト(さだべえの歴史探検)を眺めていた.
すると,『もののけ姫』と鬼の関係に触れてあったのだ(物の怪).
これを読んで私ははっとした.

◆鬼と神を描いた『もののけ姫』
鬼というのは怨みを持つ者,また社会的弱者の象徴である.
アシタカは大和朝廷の圧力により北の辺境の地に追われたエミシ(蝦夷)の末裔である.
当時のエミシは大和の連中からすると扱いにくい「鬼」とされてきたのだ.
つまりアシタカは当時の社会における弱者であり,鬼である.
エボシ様を初めとするたたら場の連中はどうだろうか.
このサイトによると,当時たたら場で働く者には職業柄片目を失明している者が多く,たたら場の外の人の目には一つ目の鬼のように見えたという.
また,作中でも描かれているように,エボシ様はハンセン病患者や売られた女たちという社会的弱者を匿ってたたら場で生活させている.
興味深いことに,エボシ様の裏設定について宮崎駿は「海外に売られて中国の倭寇の大親分の妻になったが男を殺して財宝を奪って戻ってきた女」(参照:http://papipu2ch.blomaga.jp/articles/57025.html)としている.
過去に売りに出され,今はたたら場の主であるエボシ様もまた「鬼」であるのだ.
こうしてみると,『もののけ姫』とは「神(=自然)」と「鬼(=弱い人間)」との対峙を描いた作品なのだ.
そうしてみると,かわいいサンはどうだろうか.
幼いころに捨てられた,という過去をみるに,弱者であるように思えるが,作中でも触れられている通り,かわいいサンは人間でもなければ山犬でもない(正確に言えば,山犬になりたいが物理的になりきれない人間である).
つまり,かわいいサンは自分のアイデンティティを探しながら「鬼」と「神」の狭間を彷徨い続けていると解釈できる.

◆東北地方の伝説と『もののけ姫』
前述した通り,アシタカは蝦夷の出身である.
作中でヒイ様がアシタカに村から出ていくように伝えるシーンがある.
そこで映る,ヒイ様の住む建物のモデルはおそらく平泉にある達谷窟(たっこくのいわや)である.
ここはその昔,悪路王という伝説の鬼(悪路王は大竹丸と同一という説もある)が拠点としていた場所だ.
この事実は,もののけ姫に描かれるエミシ一族はやはり「鬼」であるということを暗に仄めかしている.
面白いことに,エボシ様のモデルは悪路王を退治した鈴鹿御前(=立烏帽子)である.
このように,もののけ姫の物語は悪路王という鬼の伝説をベースの一つにしているに違いない.
村を出たアシタカは,ヤックルに跨って西へ大移動し,やがてシシ神の森へ辿り着く.
白神山地の青池で,私の友達が「シシ神様が出てきそう」と興奮していたが,残念ながら白神山地はシシ神の森ではない(シシ神の森のモデルはおそらく屋久島である).
さて,シシ神は夜になるとデイダラボッチに変身するのだが,このデイダラボッチ(ダイダラボッチ)は日本に古くから伝わる伝説の生き物である.
ダイダラボッチは大太郎法師と書き,巨人を意味する(一寸法師の反対である).
日本各地でデイダラボッチの伝承があるが,とりわけ私の関心をひいたのが「秋田の太平山の化身」というものだ.
太平山というと,秋田では多くの学校の校歌に歌われるほど有名な山である.
大昔,秋田県の横手盆地は湖であったため,湖の水を日本海へ掬い出そうという干拓事業が始まった.
そこへダイダラボッチが現れ,作業を手伝ってくれたために工事は大いに捗ったという(鳥の海の干拓伝説).
作業を終えたダイダラボッチは太平山の森に姿を消したという.
この太平山の「太平」という漢字は,明治まで「おいだら」と読まれており,ダイダラボッチ(オイダラボッチ)に由来している.
今でも夜中に太平山の深い森に入れば,デイダラボッチを見ることが出来るかも知れない...

◆もののけ姫の自然観
『もののけ姫』は,古からの日本のアニミズムや山岳信仰といった独特の自然観をとてもうまく描いている.
日本は,その面積の70%が山岳地帯,67%が森林である.
古来から山間部に暮らす人々は,衣食住のすべてにわたって森林に依存しており,日々の糧を与える山を信仰してきたのだ.
作中でも「名のある山の主」としてイノシシが登場したり,秩父の山間部などでは山の神の化身として,狼が信仰の対象として崇められている.
私が白神山地を歩いた時,空は晴れているのにブナの根の張る地面は水に濡れていた.
というのも,ブナの葉が落ちた場所は腐葉土となり,スポンジのように水を蓄えるからだ.
こうしてブナの腐葉土によって蓄えられた水は継続的に豊かな水を人々に供給する.
まさに恵みの水である.
山は人の住む場所ではなく,それ故に,深い山は多くの生き物にとってのオアシスとなっている.
作中ではそのオアシスを守る者と壊そうとする者の対立関係が描かれる.
しかし宮崎駿が伝えたいことは,アシタカのセリフにもある通り,「人間と自然の共生」が大事であるということだと思う.
自然なくして人間は生きられないが,人間の成長のためには時として自然を破壊せねばならぬこともある.
この「人間と自然の共生」というテーマは,先進国としての日本の(そして世界の),今後の課題でもあろう.

◆ジブリ映画に見る日本人の少女愛
ここまで読んでくださった方はおそらく気づいているかもしれないが,私はサンが好きである.
半ば恋している.
私の悪い癖は,ジブリ映画を観るとたちまちそのヒロインに恋してしまうことだ(ヒロインはみな美少女なのだから仕方なかろう).
ジブリ映画に出てくるヒロインの殆どは(おそらく)処女である.
我々観衆はその少女の処女性(=清純さ)に心を奪われるのである.
というのも,我々日本人はアニミズムの影響からか,清純なもの,穢れのないものを美しいと崇める傾向があるからだ.
日本人男性にロリコンが多いのも,おそらくこういう理由からだろう.
しかし,私はそれとは別の,或る大胆な仮説も立ててみることにした.
”日本人男性にロリコンが多いのは,宮崎駿に毒されたからではないか”と.
幼少期からジブリ作品に触れてきた日本人男性は「ジブリのヒロイン=可愛い」という美的価値観を宮崎駿によって形成「されて」しまったのだ.
そのため,成人してからもジブリ映画に出てくるような美少女に胸をときめかしてしまうのではないか,と...
まぁ,いずれにせよ,私は半ばサンに恋している.
あんなふうに口移しで食べ物を食べさせてもらいたい.
あんなふうに丸くなって寝るサンの顔を見ながら隣で寝たい.


以上,久しぶりに『もののけ姫』を観て感じたことでした.
長文失礼.

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