琥珀と社会
今日、友人と話していて、ひっかかることがあった。
その友人は私と同じクラスで固体物性を学んでいる。
しかし、その友人曰く「バンド図を描くくらいならプログラミングでコードを書くほうが楽しい」と。
私は少し悲しくなった。
では、彼はなぜ情報コースに行かずに、今ここでやりたくもない(この表現はやや大袈裟だが)固体物性なんかを学んでいるのか。
友人の中には、本当は機械をいじりたかったが親に言われて生物物理を学んでいる者もいる。
悲しい。
実を言うと、私もそんな悲しい者たちのひとりだ。
理学部の物理に興味があったが、親に「就職がないぞ」と言われ、工学部に入った。
いま、運の巡り会わせで、興味のある固体物性を学べているので大満足であるが......。
私は、このような社会と学問を直結させる考えに断固反対である。
自分のやりたいことをやり、自分の進みたい道に進めばいいのである。
「社会の役に立たないから」「就職に困るから」と、自分のやりたくないことをやるのは退屈すぎるではないか。
逆に、私は”一生の内で、社会に役の立たないことを深く追究できるのは大学生の頃だけだ。だからこそ大学では本当に自分が学びたいことを学べばいい。”と思っている。
同じクラスの友人の中に、心理学を学びたいから大学院で別の専攻を受験すると言っている者がいる。
大賛成だ。
心理学はお世辞にも就職先が多いとは言えない。
それも承知で、「自分が興味があるから」と、彼は言っていた。
やりたいことをやるのと、やりたくないことをやるのとでは、モチベーションの差にもつながってくる。
理学部はよく「就職無理学部」とからかわれる。
それが本当かどうかは知らないが、純粋なscienceを追い求めるのはとても素敵なことだと思う。
自然に対する驚異の目があって初めて科学という学問が発展するのだ。
技術はあとからついてきた結果のようなものだ。
電気を表す英単語electricityは、ギリシア語のηλεκτρον([elektron],琥珀)に由来する。
琥珀を擦ることで静電気が生じることを古代ローマ人が発見したのだ。
このとき発見者は、琥珀が周りの埃を吸い寄せるこの何らかの「力」を即座に理解でき、その「力」を他のことに応用しようと思っただろうか?
答えはおそらく、No だろう。
発見者は好奇心に駆られ、心を躍らせながら、何故そのような摩訶不思議な現象が起こるのか、あれこれ想像することが楽しくて仕方がなかったに違いない。
つまり、そういうことなのだ。
初めはすべてが社会の役に立つかどうかさえわからないものだったのだ。
だから、大学生のうちから社会の心配をしたり、純粋な学問を尊重しないのは、ナンセンスなのだ。
これについて強く訴えた映画がある。
『きっと、うまくいく(原題:3 Idiots)』というインド映画である。
工科大学を舞台にした、笑いあり涙ありの青春コメディ映画であるが、教育問題にも多く触れている。
主人公のランチョーのような生き方が出来れば、さぞ楽しく幸せになれるだろうに。
いろいろ書いたけど、自分に正直になる、ということは結構難しい。
いま自分はやりたいことをやれているのか、時々自分の心に問いかけるようにしたい。
琥珀を擦ることで静電気が生じることを古代ローマ人が発見したのだ。
このとき発見者は、琥珀が周りの埃を吸い寄せるこの何らかの「力」を即座に理解でき、その「力」を他のことに応用しようと思っただろうか?
答えはおそらく、No だろう。
発見者は好奇心に駆られ、心を躍らせながら、何故そのような摩訶不思議な現象が起こるのか、あれこれ想像することが楽しくて仕方がなかったに違いない。
つまり、そういうことなのだ。
初めはすべてが社会の役に立つかどうかさえわからないものだったのだ。
だから、大学生のうちから社会の心配をしたり、純粋な学問を尊重しないのは、ナンセンスなのだ。
これについて強く訴えた映画がある。
『きっと、うまくいく(原題:3 Idiots)』というインド映画である。
工科大学を舞台にした、笑いあり涙ありの青春コメディ映画であるが、教育問題にも多く触れている。
主人公のランチョーのような生き方が出来れば、さぞ楽しく幸せになれるだろうに。
いろいろ書いたけど、自分に正直になる、ということは結構難しい。
いま自分はやりたいことをやれているのか、時々自分の心に問いかけるようにしたい。
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