震災から5年,今の思いと決意
5年前,私は実家のある埼玉から大学のある仙台に引っ越してきた.「あの日」は実家で過ごした.恐ろしい出来事だった.未だかつて体験したことのない激しい揺れに戸惑った.その時私は母と二人で家にいた.水を数リットルと中学の頃使用していたヘルメットを持ち,近所の集会所に避難した.そこは避難場所に指定されているはずだったが,行ってみると私たち以外誰もいなかった.そんなに心配することではなかったのか,と思い,家に戻った.しかしニュースをつけると,信じられない映像が目に飛び込んできた.東北の町が津波にのみ込まれ,家や電柱が流されているのだ.それから何日も,テレビをつけてはその映像が繰り返し流れていた.とてもこの日本で現実に起こっている出来事とは思えなかった.遠い世界のどこかの国で起こっている出来事,もしくは映画の中で起こっている出来事のようにしか思えなかった.
奇しくも,私の進学先の大学は被災地である仙台にあった.なぜよりによってこの時期に,と思った.親戚も私の顔を見るたびに「関東にいっぱい大学があるのに,よりによってなんで東北の大学に行くの?」と言った.複雑な気持ちだった.私は関東の私立大学(某K大学)にも合格していたので,正直そちらに進もうか真剣に迷った.しかし,私は決意した.今だからこそ,東北に行くべきなのだ,と.もしK大学に進んだら,人生において何か大事なものを逃したことになってしまう,そんな気がしたのだ.
東北の大学に進学することを決めた私であったが,大学の入学は一ヶ月ほど遅れ,それまでは時間を持て余す毎日だった.入学前に半月ほど仙台で自由な時間を持ち,熱心に街へ繰り出したりした.不思議と仙台の街は活気があり,震災の影響などほとんど見られないように感じた.それまでの仙台を知らなかったからそう感じたのかもしれない.実際には,仙台の街は震災の影響をかなり受けていたと思う.
大学の入学式は行われなかった.今思うと少し寂しく感じるが,当時は気にしていなかった.
それからの大学生活はいたって普通であった.被災地にいる,ということを実感することも少なく,実感する機会があるとすれば,定期的に行われる震災に関するアンケートくらいだった.度々沿岸部へのボランティア活動の広告を目にすることもあったが,私は興味を持っていたものの,結局行動には移せなかった.今では支援の手助けをできなかったことを後悔している.当時は「こんな自分が行ったところで足手まといになるだけ」と思い込んでいたが,実際には現実を見るのが怖くて逃げていただけだったのだと思う.
私は週末の晴れた日には,たまにバイクにまたがりツーリングへ出かける.今まで,いろんなところを走った.もちろん,沿岸部にも多く行った.沿岸部へ行くと,綺麗な太平洋が見え,その青さに感動する.美しさに心惹かれて,海の近くに住みたいとさえ思う.しかし,現地の人々の今の気持ちを考えると,複雑な気持ちになる.彼らは,海というのは美しいだけのものではなく,時として恐怖にもなりうるということを身を持って体験したからだ.実際,沿岸部に行くと,今も震災の爪痕を多く見受ける.不自然なほど広大に広がる更地,削れた岩,高く盛られた防波堤,枯れた木々,駅としての機能を持たない駅,そして窮屈そうに立ち並ぶ仮設住宅.それらの光景を見ると,胸が苦しくなった.目を背けたくもなったが,目を背けたらいけない気がした.私は「あの日」被災地にいなかった.被災地の彼らと同じ経験を持たなかった.だから彼らの苦しみを全て理解することは不可能だろう.しかし,私が沿岸部をバイクで走って,目で見た光景,肌で感じたものは本物である.これらは脳に焼き付いて離れないし,今後も離してはならないものだと思っている.
沿岸部では震災の爪痕を多く目にすることとなったが,それでも力強く生きている人々がいて,立ち上がろうとする人々がいることも事実である.女川駅を訪れた際,駅には温泉施設が備えられ,単なる駅として機能しているだけでなく,近隣住民の憩いの場としても機能していた.暖かい空間であった.駅周辺も綺麗に整備され,面白そうなお店が立ち並んでいた.人々は復興に向け,立ち上がろうとしているということを体感した.
私は今,大学院で工学を学んでいる.今の私にできることは,多くの知識や経験を身につけてそれらを今後の防災技術に昇華させることだと思っている.過去を変えることはできないが,未来を変えることはできる.改めて,被災地東北で,立ち上がろうとする人々をこの目で見ながら,勉強だけでなく人生のもっと大事なことも学ぶことができたのは本当に良かったと思う.未来を少しでもより良いものに変えるため,残りの大学生活も,勉学・研究に励みたいと思う.
奇しくも,私の進学先の大学は被災地である仙台にあった.なぜよりによってこの時期に,と思った.親戚も私の顔を見るたびに「関東にいっぱい大学があるのに,よりによってなんで東北の大学に行くの?」と言った.複雑な気持ちだった.私は関東の私立大学(某K大学)にも合格していたので,正直そちらに進もうか真剣に迷った.しかし,私は決意した.今だからこそ,東北に行くべきなのだ,と.もしK大学に進んだら,人生において何か大事なものを逃したことになってしまう,そんな気がしたのだ.
東北の大学に進学することを決めた私であったが,大学の入学は一ヶ月ほど遅れ,それまでは時間を持て余す毎日だった.入学前に半月ほど仙台で自由な時間を持ち,熱心に街へ繰り出したりした.不思議と仙台の街は活気があり,震災の影響などほとんど見られないように感じた.それまでの仙台を知らなかったからそう感じたのかもしれない.実際には,仙台の街は震災の影響をかなり受けていたと思う.
大学の入学式は行われなかった.今思うと少し寂しく感じるが,当時は気にしていなかった.
それからの大学生活はいたって普通であった.被災地にいる,ということを実感することも少なく,実感する機会があるとすれば,定期的に行われる震災に関するアンケートくらいだった.度々沿岸部へのボランティア活動の広告を目にすることもあったが,私は興味を持っていたものの,結局行動には移せなかった.今では支援の手助けをできなかったことを後悔している.当時は「こんな自分が行ったところで足手まといになるだけ」と思い込んでいたが,実際には現実を見るのが怖くて逃げていただけだったのだと思う.
私は週末の晴れた日には,たまにバイクにまたがりツーリングへ出かける.今まで,いろんなところを走った.もちろん,沿岸部にも多く行った.沿岸部へ行くと,綺麗な太平洋が見え,その青さに感動する.美しさに心惹かれて,海の近くに住みたいとさえ思う.しかし,現地の人々の今の気持ちを考えると,複雑な気持ちになる.彼らは,海というのは美しいだけのものではなく,時として恐怖にもなりうるということを身を持って体験したからだ.実際,沿岸部に行くと,今も震災の爪痕を多く見受ける.不自然なほど広大に広がる更地,削れた岩,高く盛られた防波堤,枯れた木々,駅としての機能を持たない駅,そして窮屈そうに立ち並ぶ仮設住宅.それらの光景を見ると,胸が苦しくなった.目を背けたくもなったが,目を背けたらいけない気がした.私は「あの日」被災地にいなかった.被災地の彼らと同じ経験を持たなかった.だから彼らの苦しみを全て理解することは不可能だろう.しかし,私が沿岸部をバイクで走って,目で見た光景,肌で感じたものは本物である.これらは脳に焼き付いて離れないし,今後も離してはならないものだと思っている.
沿岸部では震災の爪痕を多く目にすることとなったが,それでも力強く生きている人々がいて,立ち上がろうとする人々がいることも事実である.女川駅を訪れた際,駅には温泉施設が備えられ,単なる駅として機能しているだけでなく,近隣住民の憩いの場としても機能していた.暖かい空間であった.駅周辺も綺麗に整備され,面白そうなお店が立ち並んでいた.人々は復興に向け,立ち上がろうとしているということを体感した.
私は今,大学院で工学を学んでいる.今の私にできることは,多くの知識や経験を身につけてそれらを今後の防災技術に昇華させることだと思っている.過去を変えることはできないが,未来を変えることはできる.改めて,被災地東北で,立ち上がろうとする人々をこの目で見ながら,勉強だけでなく人生のもっと大事なことも学ぶことができたのは本当に良かったと思う.未来を少しでもより良いものに変えるため,残りの大学生活も,勉学・研究に励みたいと思う.
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