新しいものが良いわけではないのに
なぜ人は古いものを捨て、新しいものを取り入れようとするのか。
バブル世代に隆盛を極めたディスコ・クラブ、ヴェルファーレの跡地にニコファーレなるライヴハウスが出来たことはもうニュースで知っていると思う。
そのきらびやかな作りと最先端の技術で、音楽界のみならずお笑い界などでも話題を呼んでいる。
いつの時代でも新しい取り組みというものは必要だし、それで人が楽しめるなら素晴らしいことだと思う。
ただ最近、新しいものが増えすぎて、それらが人々の感性を奪っていくような気がしてならない。
そもそも僕の頭の中にあるライヴハウスはあんな小奇麗なものではない。
天井が低く、こぼれたアルコールと汗で床がべとついていて、男臭いムンムンとした熱気に包まれている。
それがまさしく僕の中でのライヴハウスだ。
たとえ出来立ての、ピカピカのライヴハウスが出来たとしても僕は恐らく、昔からあるライヴハウスに行くだろう。
ライヴにおいて、勿論出演アーティストやセットリストの内容、演出などは重要に決まっているのだが、僕が思うにライヴ独特のあの空気、雰囲気こそライヴの醍醐味なんだと思う。
汗臭い場内の、べたつく床の上に立ち今か今かとアーティストを待つ。
これこそが一番ライヴを実感する時間。
サッカーでも同じ。
自分は埼玉出身なので浦和レッズの話になってしまうのだが、浦和レッズのホームスタジアムであった駒場スタジアムは良かった。
小さく、サッカー専用のスタジアムではなかったが、ファンには愛された。
レッズが2部に落ちた時も、1部に再び戻った時もファンは駒場から声援を送り続けた。
レッズの家は駒場だった。
しかし、2002年日韓ワールドカップ開催に合わせてさいたま市内に埼玉スタジアム2002が登場した。
埼スタはサッカー専用のスタジアムで、球技専用のスタジアムとしては国内最大級という素晴らしいものだった。
埼スタは駒場とともにレッズのホームスタジアムとなり、ファンは喜んだが、駒場が利用されることが少なくなるにつれて、内心寂しくもあった。
そう、高機能をもつものが人々の欲求を満たすとは限らないのだ。
新しいものはしばしば人々の心にズカズカと入り込んできては、今までの良き記憶を踏みにじる。
レッズファンの中には、今でも駒場でのゲームが見たい人が少なからずいるはずだ。
映画館でも同じ。
映画館で映画を見る醍醐味はやはり映画館の空気を存分に味わうことだろう。
映画の内容も勿論大事だが、映画館で見ているのだ、というその状況が一層我々をわくわくさせる。
自分は、新しくできた大きな映画館よりも、その街に古くから存在するこじんまりとした映画館のほうが好きだ。
ポップコーンも売っておらず、シートも40席ぐらいしかない小さな映画館。
街の一角で様々な映画をあらゆる人々に上映してきたその建物の静かな呼吸を感じながら、作品を楽しむ。
これがいいのだ。
大きな映画館では絶対に味わえない空気。
先日、その小さな映画館で『コクリコ坂から』を見た。
素晴らしく良かった。
その映画館の空気と作風がぴったりシンクロしていた。
こじんまりとした映画館がより一層その映画の持つ味を引き立てていた。
映画の中には、主人公たち(高校生)が学生会館「カルチェラタン」の存続を理事長に直訴するシーンがある。
「カルチェラタン」は古くからある歴史的な建物だ。
まさにこの映画は、古いものを捨てるな、新しいものが必ずしも良いものとは限らない、ということをメッセージとして見るものに訴えかけていた。
エンディングに流れた主題歌を聴いたとき、僕は心の芯からあたたかい気持ちになった。
しかし、今日僕はネットでこんな記事を見つけてしまった。
http://getnews.jp/archives/131068
手嶌葵がニコファーレで主題歌を歌ったそうだ。
写真には宮崎吾朗監督も写っている。
この記事には幻滅した。
作品が訴えていたことと矛盾した内容だ。
スクリーンの中では「カルチェラタン」を必死に守ろうとした少年少女。
しかしスクリーンの外では監督と主題歌を歌った歌手が最新式のライヴハウスでインタヴューを受ける。
正直戸惑いを隠せない。
僕の中で少なからず映画の評価が下がった。
宮崎駿が監督だったらその辺の配慮はしていたはずだ。
やはり宮崎吾朗はまだ人間として浅いのか。
秒単位で科学技術が発展する今の時代。
新しいものを作ろうとすれば簡単に出来てしまう。
古いものを壊そうとすれば簡単に壊せてしまう。
そんな時代だからこそ、守るべきものは守らないといけない。
今重要なのは何を作るかではなく、何を残すかだ。
そして、より高度の検討を必要とするのが後者であるということは言うまでもない。
バブル世代に隆盛を極めたディスコ・クラブ、ヴェルファーレの跡地にニコファーレなるライヴハウスが出来たことはもうニュースで知っていると思う。
そのきらびやかな作りと最先端の技術で、音楽界のみならずお笑い界などでも話題を呼んでいる。
いつの時代でも新しい取り組みというものは必要だし、それで人が楽しめるなら素晴らしいことだと思う。
ただ最近、新しいものが増えすぎて、それらが人々の感性を奪っていくような気がしてならない。
そもそも僕の頭の中にあるライヴハウスはあんな小奇麗なものではない。
天井が低く、こぼれたアルコールと汗で床がべとついていて、男臭いムンムンとした熱気に包まれている。
それがまさしく僕の中でのライヴハウスだ。
たとえ出来立ての、ピカピカのライヴハウスが出来たとしても僕は恐らく、昔からあるライヴハウスに行くだろう。
ライヴにおいて、勿論出演アーティストやセットリストの内容、演出などは重要に決まっているのだが、僕が思うにライヴ独特のあの空気、雰囲気こそライヴの醍醐味なんだと思う。
汗臭い場内の、べたつく床の上に立ち今か今かとアーティストを待つ。
これこそが一番ライヴを実感する時間。
サッカーでも同じ。
自分は埼玉出身なので浦和レッズの話になってしまうのだが、浦和レッズのホームスタジアムであった駒場スタジアムは良かった。
小さく、サッカー専用のスタジアムではなかったが、ファンには愛された。
レッズが2部に落ちた時も、1部に再び戻った時もファンは駒場から声援を送り続けた。
レッズの家は駒場だった。
しかし、2002年日韓ワールドカップ開催に合わせてさいたま市内に埼玉スタジアム2002が登場した。
埼スタはサッカー専用のスタジアムで、球技専用のスタジアムとしては国内最大級という素晴らしいものだった。
埼スタは駒場とともにレッズのホームスタジアムとなり、ファンは喜んだが、駒場が利用されることが少なくなるにつれて、内心寂しくもあった。
そう、高機能をもつものが人々の欲求を満たすとは限らないのだ。
新しいものはしばしば人々の心にズカズカと入り込んできては、今までの良き記憶を踏みにじる。
レッズファンの中には、今でも駒場でのゲームが見たい人が少なからずいるはずだ。
映画館でも同じ。
映画館で映画を見る醍醐味はやはり映画館の空気を存分に味わうことだろう。
映画の内容も勿論大事だが、映画館で見ているのだ、というその状況が一層我々をわくわくさせる。
自分は、新しくできた大きな映画館よりも、その街に古くから存在するこじんまりとした映画館のほうが好きだ。
ポップコーンも売っておらず、シートも40席ぐらいしかない小さな映画館。
街の一角で様々な映画をあらゆる人々に上映してきたその建物の静かな呼吸を感じながら、作品を楽しむ。
これがいいのだ。
大きな映画館では絶対に味わえない空気。
先日、その小さな映画館で『コクリコ坂から』を見た。
素晴らしく良かった。
その映画館の空気と作風がぴったりシンクロしていた。
こじんまりとした映画館がより一層その映画の持つ味を引き立てていた。
映画の中には、主人公たち(高校生)が学生会館「カルチェラタン」の存続を理事長に直訴するシーンがある。
「カルチェラタン」は古くからある歴史的な建物だ。
まさにこの映画は、古いものを捨てるな、新しいものが必ずしも良いものとは限らない、ということをメッセージとして見るものに訴えかけていた。
エンディングに流れた主題歌を聴いたとき、僕は心の芯からあたたかい気持ちになった。
しかし、今日僕はネットでこんな記事を見つけてしまった。
http://getnews.jp/archives/131068
手嶌葵がニコファーレで主題歌を歌ったそうだ。
写真には宮崎吾朗監督も写っている。
この記事には幻滅した。
作品が訴えていたことと矛盾した内容だ。
スクリーンの中では「カルチェラタン」を必死に守ろうとした少年少女。
しかしスクリーンの外では監督と主題歌を歌った歌手が最新式のライヴハウスでインタヴューを受ける。
正直戸惑いを隠せない。
僕の中で少なからず映画の評価が下がった。
宮崎駿が監督だったらその辺の配慮はしていたはずだ。
やはり宮崎吾朗はまだ人間として浅いのか。
秒単位で科学技術が発展する今の時代。
新しいものを作ろうとすれば簡単に出来てしまう。
古いものを壊そうとすれば簡単に壊せてしまう。
そんな時代だからこそ、守るべきものは守らないといけない。
今重要なのは何を作るかではなく、何を残すかだ。
そして、より高度の検討を必要とするのが後者であるということは言うまでもない。
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